四季を語る
四季があるのはありがたいことです。国土が広くても年中、寒かったり暑かったりすると価値は半減するでしょう。
南極大陸はオーストラリアの2倍ほどの広さがありながら定住者は0という統計値であり、常時、冬の天候では住みにくいと言えます。
日本では、春は「山笑う」、夏は「山茂る」、秋は「山装う」、冬は「山眠る」と称されます。冬の山は紅葉が終わると積雪に見舞われ白一色に覆われて眠りにつくのでしょうか。
日本は7割近くが山間部であり、山には神が宿ると信じられ、山というのはとりわけ昔は通常の考えでは思いもつかない現象が起きる神秘の場所であり、山の神というのは怖ろしいものの代表でした。
山の神から恐妻へ
女性は男性にできないことをしてのけるので畏敬の対象になっていたのです。そのため、トンネル工事や土俵上に女性を踏み込ませないという風土が定着しました。
女性をあがめるというか棚上げして勢力を削ぐとか複雑な思いでの扱いだったでしょう。それが女性蔑視や差別につながるというのならば、是正もやむを得ないのでしょう。「山の神」おお怖い!と叫ぶのは女性ハラスメントでまずいのかな。
季節感
平成最後の師走も大詰めです。かつては季節に寄り添った生活でしたが、文化の進歩とともに文明人は季節を凌駕したかのような錯覚を覚えアクセントのない生活に慣れきっています。
ひところ「お正月を写そう」とフィルムメーカーのCMでにぎわったものでした。
大昔、コンビニやスーパーで餅を売ることがなかったので農家や広い土地所有者は個人で、集合住宅や社宅住まいではコミュニティ単位で餅をついたものでした。
だから餅は食べたいとき食べるのではなく、イベントとセットでありバリバリの季節感がまとまりついていました。
創立記念日や運動会にかこつけて餅つき大会を催しました。
今は交流がグローバル化しているので地域がまとまってはじめて催行人数がそろうことを期待することもないのです。
月日は巡る
国と国のつきあいや個人のつきあいでも余裕がなくなってきたのでしょうか。移民はする側、される側の双方にメリットがあり、積極的にまたは暗黙の裡に認め合ってきました。
革命で故国から逃れてきて亡命先の土地に同化して住みつくことはよくあったことでしょう。地続きのヨーロッパでは有史以来、連綿と続いてきたでしょうし、島国の日本でも少なからずあったと思われます。遠島から始まり、江戸十里四方追放などの追放刑がありました。
権力闘争で敗れたものを根こそぎ抹殺せずに、逼塞させておく余裕がありました。正義は不変でなく揺れ動くものであることを人は歴史から学んでいたからでしょう。「明日は我が身」を頭の隅に置く作法まで失わなかったからです。
国内では為政者と民衆間では古くから、せめぎ合った歴史があります。目利きの達人は、為政者が金に不純物を混ぜて鋳貨し財政の足しにすることを画策しても、金含有の減少を即座に見破り価値の低下を推し量りました。
最近の庶民生活で製造販売物の嵩や重さが知らず知らずのうちに小さくなってきています。
加えて、郵便物の集配が2回から1回に減って、配達日が月~金の週5日になるサービス低下は実質的な値上げになります。
力のないものに痛みを押し付けることはいつまで続くのでしょうか。